Akai's Insight & Memo

かなり小さなマーケティング会社の社長のブログ。MKTインターナショナル株式会社 代表取締役社長 赤井 誠。http://www.mkt-i.jp id:mktredwell

Linux 20周年記憶に残ることと『震災恐慌』

Linux Foundationは、6月1-3日 パシフィコ横浜で、イベント 「LinuxCon Japan 2011」を開催した。それに合わせて、リーナスだけでなく、海外から著名な開発者が来日し、また日本からもさまざまな人が参加、ボランティア活動を行った。

そのため、久々に多くのメディアやネット上にLinuxの文字が大きく取り上げられた1週間だったと思う。

特に今年は、リーナス・トーバルスが最初のLinuxカーネルを発表してから、20年という関係で話題になることも多い。例えば、リーナスがフェローをつとめる The Linux Foundation は、20周年記念サイトを作って、さまざまなな情報を発信している。その中でも、「Memorable Linux Milestones」ということで、記憶に残るLinuxに関わるマイルストーンという画像もアップロードしている。

上の画像に載っていない、20年で記憶に残るマイルストーンには、何があったのだろうか。

僕がLinuxの存在を知ったのは、阪神・淡路大震災のあとに、いくつかの復興関連ITイベントで、Linuxの話を発言しているので、その前だと思うがはっきりしない。そして、ビジネスとしてかかわりあうようになったのは、2001年くらいだと思う。どっぷりとつかったのが、2003年11月になってからだ。そんなことから、最近は、あまりリンクして語られることもなくなったけれど、重要な出来事を、ぼくの最近の経験を合わせて、考えてみる。

今、起業したばかりのため、日中は挨拶回りを優先だ(そのためLinuxConも不参加)。しかし、夜は、まだ時間に都合がつくことも多いために、興味のあるイベントには参加している。その中で、参加したのが、「震災恐慌」/ 上念司(経済評論家)、田中秀臣(上武大学教授 経済学者) の出版イベントだ。

震災恐慌!?経済無策で恐慌がくる!

震災恐慌!?経済無策で恐慌がくる!

書籍の内容は、「“元々不況だった”ところに、“今回の震災からくるもう一段の不況”という二重苦」に警鐘を鳴らすものだ。アマゾンの書籍紹介には、異色の経済学者とあるが、経済の考え方では、日本ではリフレ派と呼ばれるグループ(実際には何かの団体派閥があるわけではない)に位置されていて、異色ではないと思う。しかし、『AKB48の経済学』の執筆や「ももいろクローバー」との対談イベントの実施などで、このあたり活動は、確かに経済学者としてはかなり異色だ(よね)。日本以外には、リフレ派という言い方をしているかどうかは知らないが、その考えは、主に金融緩和政策、時に財政政策も併用するマクロ経済政策を通じて有効需要を創出することで景気の回復、デフレ脱却、インフレーションコントロールをしようとすることをさしている。世界的には、ノーベル経済賞を取ったポール・クルーグマンや現在のFRB議長ベン・バーナンキが有名である。

さて、話をもどそう。もともとこのリフレといわれる考え方に興味を持っていたので、このイベントに参加した。リフレそのものへの興味のきっかけが、ポール・クルーグマンの論文が公開され、日本語に翻訳されたのを読んだのがきっかけとなる。その翻訳をしたのが、評論家 山形浩生氏である。

なぜ、山形浩生氏の活動が、Linux 20年史と関係してくるのだろう。Linuxが世界的なブームになっていく過程で、重要な論文(ぼくにはエッセイに近いと思う) や企業内部文書が公開されたことがある。そのときに、いち早く、日本語に翻訳して公開したのが、山形氏だからだ。

一連のエリック・レイモンドによるオープンソースの分析論文集

これらの論文集で、オープンソースプロジェクトの動きや開発者の心の動きを説明している。

そして、エリック経由で公開されたものが次のものだ。

マイクロソフトの内部文書と噂された(そして、のちに認めたらしい)文書だ。この文書は、オープンソースそのものの解説書としても、よくできている。
(ちなみに、今や、ほとんど話題になることもなくなったエリック・レイモンドなのだけど、一時はオープンソースのスポークスマンだった。)

これらのドキュメントは、各所で引用され、また一部活字として出版されることになり、さまざまな影響を与えていくことになる。一部を抜粋すれば、

Linux はミッションクリティカルな商用環境にも導入され、きわめて好評をはくしている。(中略)Linux はほかの Unix の多くを上回る性能(中略)Linux はこのままいけば、いずれは x86 UNIX 市場を独占することになる。http://cruel.org/freeware/halloween1j.html#quote6

実際に、x86 UNIX市場でトップになったのは早かったが、UNIX市場規模と比較しても、今や大きな市場となっている。

そして、山形氏は、このころ、雑誌でリーナス・トーバルズやリチャード・ストールマンのインタビューも実施していた。長い内容だけど、そのころの状況を伝える彼に対するインタビューは、以下にある。

この中の最後の部分で質問されているように、ポール・クルーグマンの論文が引用されて、OSSが語られるという構成になっている。このころは、彼を接点として、オープンソースとマクロ経済学がクロスしていた時代なのだ。例えば、数学者の東北大学 黒木玄さんの「なんでも掲示板」などで理系の方々が、マクロ経済を議論しているという現象も起こっていた。そのあと、彼のOSSに対する活動は縮小し、また、OSS自体も、マクロ経済でもなく、ミクロ経済でもなく、「経営学」(企業戦略やマーケティング) の領域で議論されることが多くなり、両方のコミュニティが分離していることになる。おそらく2000年代にOSSビジネスに参加し始めた人は、これらの流れは当然知らないだろう(マクロ経済の畑の人には、聞いたことがないので、どうなのだろう)。

今回、文書やドキュメントを読み直してみたところ、今でも役に立つ部分が多いと思う(ただし、読み返したら、ビジネスがうまくいくとか、そういう類のものでもないので注意)。

自分自身にとっては、この時期に、神戸大学経営学部のビジネススクールに通っていたころだ。これらの動きを同級生の一部の人と議論していた(ぼくは、オープンソースの話で、他の人は、マクロ経済の話)。これだけではないけれど、自分自身のビジネスに対する考え方が、固まってきた一つの大きなきっかけになったことは間違いない。

まとめると、Linux 20年史の中で、記憶に残るできごととしては、世界的には、エリック・レイモンドの一連の論文発表とそれに付随するハロウィーン文書の公開となる。日本においては、山形氏の一連の活動により、Linuxやオープンソースの活動が、単なる技術者を中心にしたものだけでにとどまらず、経済学ともリンクされ議論されることになったために、フィロソフィーとして、深みを増したと考える。これは、一連の文書が、もし普通のエンジニアだけで翻訳され公開されたとするより、当時から評論家として活躍し、経済学などの知識があり、かつLinuxコミュニティに入っていたという彼の手によったためだったからだろう。

そして、日本における記憶すべきことだというエビデンスはあるのかと聞かれたら、僕自身の結果と答えたい。というのも、Linux事業の責任者として活動し、日本のLinux市場の拡大に大きく貢献でき、またグローバルにも影響を与えることができたベースになったと言えるのだから。

(震災恐慌のイベントの話を書こうとおもったら、話が違う流れになったので、別に書きます。)